中林 梧竹 なかばやし ごちく
   

積水連天碧渺漫
軽帆過盡幾灘灘
山城林驛燈光暗
揚子江頭夜已闌
積水(=海) 天に連なり 碧 渺漫(=広く果てしない)
軽帆(=船足のはやい帆かけ船) 過ぎ尽す 幾く灘灘
山城の林駅 灯光 暗し
揚子江の頭(ほとり) 夜 已でに闌(たけなわ)
133.5p×52.5p

文政10年4月19日(新暦 1827年5月14日)生〜大正2年(1913)8月4日歿
 名を隆経、通称は彦四郎、字は子達。梧竹と号し、個閑・忘言・鳳栖軒・剣書閣主人とも号した。
 鍋島藩の支藩小城藩(現在の佐賀県小城市)の家臣であった中林経緯の長男として生まれ、鍋島藩藩校である興譲館に学んだ。
 18歳の時に藩命により江戸に留学し、山内香雪、市河米庵の門に入って書を学んだ。30歳のとき、帰藩して藩校指南役となり諸役に任ぜられたが、45歳のときに廃藩置県(1871)となり、これ以後は仕官することなく書に専心することになる。
 明治10年(1877年、51歳)、清国の余元眉(長崎の清国理事府理事官)から中国の碑版法帖の提供を受け、梧竹の六朝書の研究が始まった。明治15年(1882年、56歳)、梧竹は帰国する余元眉とともに清国に渡り、余元眉の師で北京在住の潘存のもとで古碑、拓本の蒐集・研究に没頭する。
 明治17年(1884年、58歳)、漢・魏・六朝時代の碑の拓本をたずさえて帰国したが、これらの留学が梧竹の学書法に著しい影響を及ぼしたことは明らかであり、明治の書壇への影響力が大きかった。その書は、篆・隷・楷・行・草の各体に巧みであり、奔放闊達な筆致のなかに気宇雄大な趣があふれ、造型美を追究した梧竹流ともいうべき書風の確立がみられる。六朝の書法を探究して、多くの碑拓を請来したため、書というよりもむしろ絵画の味わいがある。また、水墨画も数多く残している。
 明治24年(1891年、65歳)のとき、王羲之の十七帖の臨書を明治天皇に献上し、白羽二重の御衣を下賜された。同郷の副島蒼海などの助力により、晩年までの30年ほどを東京銀座の洋装店伊勢幸(現在の銀座貿易ビルの地)に寄寓したことから、銀座の梧竹と称されるようになる。
 70歳のとき郷里に帰るが、翌年には北京大学翰林院)の額を書くため再度清国を訪ね、このときは漢代の碑帖をおおく持ち帰った。
 梧竹の書の著述に、没後発見された『梧竹堂書話』がある。80代半ばより、自らの書の歩みの集大成の執筆を始めていたようで、書を日本で学び、中国に留学して根源を追求し、さらに士族の出身として、また日本人としての自覚を非常に意識し、「筆意を漢・魏にとり、筆法を隋・唐にとり、これに添えるものとして晋人の品致をもって行い、これに加えるものに日本武士の気象をもって行う。これがわが家の書則である。」と述べている。

推奨サイト
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http://www.wakuwaku-ogi.com/museum/ogi-1.html
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http://www.city.ogi.lg.jp/main/4985.html


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